LOGIN翌日の午後、リゼットは北方砦の正門前でヴァルドを待っていた。
湖までは馬車で半刻ほど。
その先は少し歩くらしい。
前の自分が行ったことのない場所。
昨夜、記憶帳へ『今度は、私が先』などと書いたせいで、朝から妙に気持ちが浮ついている。
自分相手に何を競っているのだろうと思う。
思うのだけれど。
それでも。
前の自分が知らないヴァルドを一つ増やせると思うと、嬉しかった。
「早いな」
声に顔を上げる。
ヴァルドが砦から出てきた。
黒い外套。
いつものように腰へ剣。
その後ろには護衛が二人。
以前なら、護衛がいることへ少しがっかりしたかもしれない。
今は。
第36話 今の私には触らないのですか翌日の午後、リゼットは北方砦の正門前でヴァルドを待っていた。湖までは馬車で半刻ほど。その先は少し歩くらしい。前の自分が行ったことのない場所。昨夜、記憶帳へ『今度は、私が先』などと書いたせいで、朝から妙に気持ちが浮ついている。自分相手に何を競っているのだろうと思う。思うのだけれど。それでも。前の自分が知らないヴァルドを一つ増やせると思うと、嬉しかった。「早いな」声に顔を上げる。ヴァルドが砦から出てきた。黒い外套。いつものように腰へ剣。その後ろには護衛が二人。以前なら、護衛がいることへ少しがっかりしたかもしれない。今は。仕方がないと分かっている。「公爵様が遅いのです」「約束より十分前だ」「私は十五分前からいました」「それは君が早すぎる」「楽しみにしていたので」口から出た。ヴァルドが止まる。リゼットも。一瞬遅れて。何を言ったか気づいた。「……湖を」付け足す。「湖を楽しみにしていました」「そうか」ヴァルドは、それ以上何も言わなかった。ただ。少しだけ。顔が柔らかくなった。馬車へ乗る。二人。向かい合わせ。以前は同じ馬車へ乗ったこともあったのだろう。
第35話 昔の私に嫉妬するなんて変でしょうか翌朝。リゼットは、朝食を終えるとそのままヴァルドの執務室へ向かった。用事はある。昨日の市で買った狼のしおりを、彼が本当に使っているのか確かめたかった。もちろん、それだけのために公爵の執務室へ押しかけるのはどうなのだろうとも思う。けれど、昨日ヴァルドは「使う」と言った。本当に使うのか。どうしても気になった。扉を叩く。「入れ」中へ入ると。ヴァルドは、すでに仕事を始めていた。窓際の大机。積まれた報告書。インク。封蝋。そして。「あ」声が出た。ヴァルドが顔を上げる。「何だ」「使ってる」「何を」「しおり」昨日買った。小さな狼の刻印。それが。分厚い領地報告書の間に。本当に。挟まっている。少し。場違い。黒く重い机。公爵印。軍事報告。税収資料。その中に。可愛らしい狼。妙に。嬉しい。「使うと言っただろう」「言いましたけど」「なら何だ」「本当に使うとは」ヴァルドの眉が寄る。「使わないと思って渡したのか」「違います」
第34話 前の私が知らない場所へヴァルドを自分から誘う。そう記憶帳へ書いた翌朝から、リゼットは後悔していた。誘うこと自体を嫌になったわけではない。問題は。何に誘えばいいのか、全く思いつかなかったことである。朝食。いつも一緒。夕食。昨日一緒。散歩。冬薔薇を見に行ったばかり。仕事。誘うものではない。お茶。それくらいならできそうだが、昨日ヴァルドがわざわざ小食堂を用意してくれたあとで、「今度はお茶でもいかがですか」と言うだけでは、あまりにも工夫がない気がする。別に競争しているわけではない。それでも。「……難しい」資料室の机に向かったまま、リゼットは小さく呟いた。向かいで帳簿をまとめていたノエルが顔を上げる。「何がです?」「何でもありません」言って。すぐ。最近すっかり身についた習慣で言い直した。「いえ。何でもなくはありません」「どっちです?」「少し考え事を」「仕事?」「違います」「じゃあ閣下?」リゼットは顔を上げた。「どうしてそうなるのですか」「最近、リゼット様が仕事以外で難しい顔してる時って、大体閣下じゃないですか」「そんなことは」言い切れない。ノエルが笑う。「何を悩んでるんです?」「…&hell
第33話 最初の求婚は契約だったので「今夜、時間を空けておけ」それが、ヴァルドからの誘いだった。昼過ぎ。資料室で古い祈紡ぎの記録を整理していたリゼットは、机の向こう側に立つ夫を見上げたまま、しばらく何も言えなかった。ノエルは隣の机で書類を書いている。ガレスもいる。つまり。二人きりではない。そんな場所へやって来て、ヴァルドは何の前置きもなく言ったのだ。今夜、時間を空けておけ。まるで会議の予定を入れるように。「……何のためにですか?」「夕食だ」「夕食」「ああ」リゼットは首を傾げた。「毎日一緒に食べていますよね」ヴァルドが黙った。ノエルの筆が止まった。ガレスは止めなかった。しかし、明らかに耳だけはこちらへ向けている。「公爵様?」「今日は別だ」「何が違うのです?」「……場所が違う」「どこで?」「東塔の小食堂」リゼットはさらに分からなくなった。「そこでも食事なのですよね」「ああ」「公爵様と?」「ああ」「それなら、いつもの夕食と何が」そこで。ヴァルドの眉間の皺が深くなった。考えている。どうやら本人も説明しにくいらしい。ノエルの肩が僅かに震えている。笑っている。絶対に
第32話 前の私は、この人の何が好きだったのでしょう翌朝。冬薔薇を見に行く約束をしていたにもかかわらず、リゼットは朝食の時間になっても食堂へ現れなかった。具合が悪くなったわけではない。寝坊でもない。目はとっくに覚めていた。ただ。寝台の上で。革張りの記憶帳を開いたまま。動けなくなっていた。「……多すぎない?」誰に言うでもなく。呟く。頁。また頁。ヴァルド。公爵様。公爵様。ヴァルド。とにかく。この男の話ばかりだった。もちろん。北方へ来てから生活の中心にいた人物なのだから、不自然ではない。この砦の主。契約結婚の相手。王家との交渉にも関わる。祈紡ぎの問題も一緒に調べていた。だから。記録が多くなるのは。分かる。分かるのだが。『公爵様は思っていたより口が悪い』『でも、嫌ではない』『公爵様は怒ると怖い』『でも、私のために怒ってくれた』『公爵様は細かい』『公爵様は私が食べていないとすぐ気づく』『公爵様は笑うと普通』『公爵様は子供には思ったより優しい』『公爵様は照れると耳が赤くなる』「……何を観察しているの、私は」思わず顔を覆う。
第31話 夫なのに、知らない人です退院の日が決まったのは、目を覚ましてから五日目の朝だった。「今日から医務室を出ても構いません。ただし、完全に元通りになったわけではありませんから、少なくとも数日は無理をしないでください」医師にそう言われ、リゼットは素直に頷いた。以前の自分なら、どこからを「無理」と呼ぶのか細かく確認し、その隙間を縫うように仕事を始めていたらしい。少なくとも、記憶帳にはそう書かれている。『休めと言われると、休むことを仕事として解釈しようとする』初めて読んだ時には随分失礼な記録だと思ったが、ミレイユもマーサもノエルも揃って「その通りです」と言うので、どうやら本当にそうだったらしい。「書類仕事も駄目ですか?」念のため聞くと、医師が露骨に嫌そうな顔をした。「まだ聞きますか」「確認です」「一時間程度なら構いません。しかし、疲労や頭痛、記憶の混乱が出たら即座に中止です」「分かりました」「本当に?」「どうして皆さん、私が返事をすると疑うのですか」医師が答えるより先に、壁際にいたヴァルドが言った。「実績だ」リゼットはそちらを見た。黒い上着。腕組み。相変わらず愛想のない顔。けれど、もう五日も毎日顔を合わせているので、最初に感じたほどの怖さはない。むしろ、眉間に皺があるのが通常なのだと分かってきた。「公爵様」「何だ」「私を知っていることを利用して、ずるをしない約束でしたよね」「過去の恋愛関係を利用するな、という話だろう」「私の悪い癖を先回りして言うのも、少しずるいと思います」